昭和43年11月17日 第一回青年信徒大会

青年信徒大会が開かれますことを、心から有難いことだと思います。んーせっかくこうしてこのようなもようしが向かえたのでございますから、それが盛大に、にぎやかにできたということ(だけでは?)なくて、この会を境に皆さんが、いよいよこれから真実幸せになっておいでにならなければならない、もう真実幸せになっていけれる、そのー元とでも申しましょうかね。そうゆうふうなものを発見されたり、またはそれを頂かれたり、それを調べるということ、だけでも頂いてこの会が終らなければ、意味がないことだとこう思います。ただ若い者のつどいと、ね、そしてにぎやかにそれが終ったというだけではいけない。ね、そこでー、私ただいま青年会長から(おどり?)がありましたときに、ちゃんと(とどいて  ?)よりましたら、「正しく尊いもの」ということを頂きました。正しく尊いもの、正しくしかも尊いものとはどうゆうようなことであろうか。正しいものはたくさんある。ね、尊いものもたくさんある。けれども正しくそして尊いものというのは、そうたくさんあるはずがない。正しく尊いものということはどうゆうことであろうか。そうゆうことを私は今、皆さん御祈念をしておられる間に、神様にお届けさせてもらいよりましたら、頂きますことです。えーお道の信心によって正しく尊いものを身に付けていくということは、どうようなことかと。えーお互い人間(ボンボン   ?)ございますから、様々な願い、いうならば欲望を持っております。ね、まぁそれを、煩悩という(   ?)ます。元は我情我欲とお道は申します。ね、それを煩悩と言い、我情といい、我欲といい、そうゆうことが、ね、そうゆうことが断ち切られることのために、信心するというじゃない。欲望を断ち切るためのものではないです。お道の信心は。ね、その欲望をね、正しく道ずけする、ね、そしてそれが叶えられていく。信心というのは難しか、信心というものは、まぁ例えば口を開けば、あー研かんならん、あー改まらんならん、とこうゆうことは研かなければならない、改まらなければならない、というようなね、その欲を捨てるというではない。ね、例えば信心によって、そうした(  ?)たちの、欲を切り捨てるとか、それをはずしていくということであったら、とてもできません。それは大変な難しいこと。そして一生かかっても、これができないということを分かる(だん?)。ね、人間死んでまでこれを煩悩、欲望、我情我欲というものは、はずすことができない。それが人間の実態なのだ。ね、ですから、そうゆう例えば欲望の中に、問題は道づけをしていく。ね、いかにも信心とゆうのは、そうゆう難しいことに取り組むことが信心ように思っておる、(間違う?)ておる人がございます。ね、それはいかにも私は、師匠らしく見えるのですけども、はたしてそれに取り組んだ人がそれに(ぜいり?)する、それが願いが叶えられるということはできないことを、それこそ(死にぎわ?)に分かることであろうと私は思う。というほどに、人間もいやば我情である、我欲である。ね、またはその煩悩と思われる、その欲望とゆうのは、はずすことができないもんなんだ。ね、そうゆうものを例えば求めるということは、ちょうど皆さん(しらめし?)というものをご承知でしょう。あることだけは事実なのだ。ね、階段に何月の何日の何時ごろから何時ごろまでに、ところが私も実際見たことがないけれども、ね、しらめしというのがある。昔からこの日をたくさんの人が、どうしてあの日がでるのであろうか、おこるのであろうか、そうゆう(たんきゅう?)した人がたくさんある。近代、いうなら科学のすいを集めた人もそれが分からない。そのまま(しんだすとり?)、たしかに、知らぬ日である。確かに、おきやに見えておる。船を出して近づくとそのしらぬ日はどこまでも、後へ後へへだっていく。これが私はね、人間の我情のために、我欲のために苦しんでおる。自分にこうゆう欲望があるために苦しんのだ。その苦しみの元がこの我情我欲だと。この煩悩だ。そこまでは、追求して分かることができる。ね、そこ我情我欲のために人間は苦しむのだ。ね、この物がなくなったら、人間の苦しみがなくなるのだ。そこまでは、分かる。そこで(首相?)の人はそれにまぁいうならば取り組んで、多くの人が取り組んできた。ね、多くの宗教家がそれである。そしてはたしていかにも出来たかのように見えておるけれども、一生かかってできあがったのがそれである。例えば、(真宗?)仏教(真宗?)の(しんらん?)なんかがその、実証者であると私は思う。ね、それが人間なのだ。それを追うことは、ね、大変な難しいことなんだ。だからそうゆう難しいことには、とても自分たちでは駄目だというのが、信心を犬猿する人たちの、実際の姿じゃなかろうか。信心すりゃ窮屈になる。信心は難しい。とても普通ものじゃでけん。そうゆうことじゃない。ね、それを求める者は、求めるような者は、(しらぬい?)を追求して行く、(しらぬい?)を追うて行くようなものだ。ね、お道の信心はそうではない。あたくしどもが、いやば有りのまま、そのままの姿で、ね、そうしてその例えば苦しみというものがです、そのために苦しみがあるのだと分かる。そこからその悩みとか苦しみ、いうならその我情である、我欲である、煩悩である。ね、生きておるためのいやばその苦しみというものに、ね、道をつける道を教えて下さっておるのが教祖金光大神だと思う。それをお道では御取次ぎという。ね、御取次ぎが成就、成就、御取次ぎの働きがめいめい人間氏子の上に成就していく。ね、そこに天地の親神様の願いのもとあるのである。ね、そこで御取次ぎを頂いて、起きてくること、ね、それは、悪いことのように見えても、それは良いこと。御取次ぎを頂かずして起きてくることは、いかにも良いことのようにあるけれども、それは悪いこと、とこれは、極言のようでありますけれども、事実そうだと私は思うております。これは、高橋(ひろし?)という、先生の名言ですね、御取次ぎを頂いて起きてくること、それは困ったことのよに見えても、悪いことのように見えても、それは全部よいと言うておられる。御取次ぎを頂いて、ね、頂かずして、いかにもそこに結構なまたは、素晴らしいよいものに見えてあっても、結局結果においては、ね、御取次ぎを頂かずして起きてくることは、みな悪いというておられる。その御取次ぎを頂いて起きてくること。ね、それをお互いが元気な心で受けていこうとする姿勢を作らなければならないことはもちろん。ね、そこから私共の例えば我情ある、我欲であるに、(発揮?)しかもそれが天地にまでもつながっていく道を示してくださる。その道を辿って現れてくるのが、そのルートをたどって流れてくるのがおかげである。そこには人間のまたは、想像(だも?)しなかった、おかげが展開してくる。はーもう合楽の親先生は神様に(  ?)。いうなら私に我情我欲がないかといったら、そうじゃない。(ふっと?)するとみんなよりも大きいかもしれない。確かに信心を頂くようになればなるほど大きな欲ができてくる。ね、それでも、私の場合は一つ一つに道がつけてある。しかもその道が天地につながっていくのであるから、その道をたどって現れていくところのおかげ。ね、お道の信心の、いやば有難いところはそう意味だと私は思うのです。信心すりゃ、こんなものを捨てならん、この欲を捨てならん(   ?)してない。ね、例えばそれがいけないのではないけれども、それにいうなら本気で取り組んだ人たちがです、いかにそれが深いものであるかということを、ただ悟るだけなんです。ね、それは、(ひらぬい?)を追うていくようなもの。そうゆうことよりも現実、ね、この(み?)このままの中に、ね、(しらぬひはしらぬひ?)ね、そのままがただ、有難いものだと頂くだけなん。現実の問題をそこにしっかりふんまえて、苦しいならばお取次ぎを願い、どうしていいか分からないならば、お取次ぎを頂いてお伺いして、右左を決めて頂いて進んでいくというお道。ね、そこになるほど御取次ぎを頂いて起きてくることは、みなよいという結果がでてくる。ね、そうゆうお互い信心に御縁を頂いておるのでございますし、また今日始めてそのために縁を受けられたという方もございます。ならばです、人間の真実幸せになる道、人間が本当に幸福になるには、ね、我情我欲を満たしてもらうということで、幸せになるのではない。金がありゃ幸せ、物があれば幸せと思っておった人に物を与えてみるがよい。金を与えてみるがよい。その人(?)幸福になっておるとはいえない。いやむしろそのために、不幸になっていく人がどのくらいおるのか分からない。ね、けれどもそれを与えられなくても、いやゆる我情我欲はみためられなくても、ね、その我情と思い我欲と思われる、自分のこれは人間の煩悩だ。本当に汚いこの自分の心というものをです、ね、手のひらかえして、そのことをお取次ぎを願って、それから立ち行く道を教えてもらう。ね、そうゆう例えば、おかげをです、頂いていけれるのがお道の信心だと私は思う。もしそれが本当に皆さんの芽になり、皆さんの信心の中にそれが、生活の中にないならばです、ね、そこに皆さんが幸せを感じなさることができる、またそれをなるほど合点がいくならばです、そこに幸せの元になるものを、皆さんは受けられることになる。それを育てていく、ね、それを実行していく、行じていく、ね、そこからいよいよ幸せの道は開かれる。いうならば幸せ、幸福の門の前に立たれたようなもの。ね、この門をくぐらなければ人間の幸福は有り得ないと、もし分かられる(強大?)から大変な意義の深い有難いことになってくる。正しくそして尊いもの、それを今日は私は御取次ぎを頂いて、御取次ぎを頂いての生活、その生活の中には、我情我欲があってはならない、欲望があってはならない、煩悩は捨てなければならない、というのではなくて、その煩悩そのものも、そのもののズバリにお取次ぎを頂いて、そこから道をつけて頂くとゆう生き方、そこに正しく、尊いものが生まれてくる。どうぞ。